タムケンブログ

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論理は如何様にも利用可能な道具也


今更気付きました。

ある事あるプロジェクトに関して、二人の人が話し合っていたとします。一人は、経験や思想やカンなどから一つの結論を想定した上で論理的思考により話し合いの決着点を模索しようとします。
もう一人は、主に定量データを基に論理的思考により一つの結論を導こうとしています。

二人は論理的に議論するので、恐らく白熱した議論になります。しかしながら双方納得の上合意に至るのは難しい。

二人は論理的に正しい結論を導こうとしている。しかし彼らが求めているものは本当は異なっている。
一般的に正当だと考えられている論理は、ここでは共通言語に過ぎない。だけど判断の為の道具が一定みたいに見えるから対立構造が見えにくかったり最後までカオスだったりする。いっそ論理なんてなければ明らかに別のことを言い出すから、喧嘩になって対立構造がはっきりするのに。

合意正当化のための論理と、最適解導出のための論理。表面的に似ているものだから現実にはぱっと見差異が見えないかもしれない。でも決定的に目標が異なっているのだから、それをどうにかしない限りいくら論理的に議論しようとまったくの無駄であると思います。ロジックは重要だが、そもそも目標目的が一定の物として共有されない限り、無駄なロジックの戦わせあいになる。これがまた、仕事した感を生むからやっかいかな、と。


経験や思想やカンなどから一つの結論を想定した人が複数人いてそれぞれ違う結論な場合は最悪。いくら論理的にがんばっても、もとの仮結論を撤回する柔軟性がなければまったくの無駄。この柔軟性がまた、一貫性がないとか意思が弱いとかマイナスにとらえられちゃったりすると悲劇。


とはいえ、結論まったく見えないまま論理的に最適解を見つけるなんて途方もなく難しい場合がたくさんあって、頑張って頑張っても出なくて結局複数の仮結論の中から論理的正当性が高いの選んだほうが楽だったね、なんて場合も沢山あるから大変ですね。
僕は論理的最適解捜索に偏り気味の人間なので、結論を初めにおく人をあまり好きではなかったのですが、そっちのほうがいい場合も沢山あるだろう訳で、ああ困ったなぁとか考えたりしています。